XP のプラクテイスを書いた日本的なカードといふのを考へてみた。以下で解説を試みたい。
XP で重視されてゐる『四つの價値』の中の一つに「コミユニケーシヨン」がある。圓滑な「コミユニケーシヨン」は、ソフトウエア開發の成功には不可缺なものの一つであるとされてゐる。
「コミユニケーシヨン」は、大切なことであるが、何かを他の人に傳へる、と云ふのは中々難しいものである。
時には確かに傳へた心算でゐても、實は意味が誤解されて傳はつてゐたり、ニユアンスが傳はつてゐなかつたりする。
このやうなコミユニケーシヨン エラーを防ぐ爲に、正確で詳細な文書に頼ることも重要であらう。UML のやうな共通の嚴密な言語を使ふことも強力な方法だらう。
だが、それでも時間と手間が掛かつた割りにうまく傳へたいことが傳はらぬこともある。一所懸命ドキユメントを書いて、それを元に長く會議を行つても中々判つてもらえずもどかしさを感じることもある。
なんといふか、その、ニユアンスがうまく傳はらぬのである。
このやうな場合には、もつと嚴密でなくフアジーな手段を使ふことが效果的なのではないだらうか。
例へば、「メタフアー」や「パターン言語」のやうなものが役に立つと思ふ。
例の一のやうに正確に詳細に傳へやうとする方法は、細部まで良く傳はる。併し、ニユアンスが傳はり難い。逆に例の二のやうな遣り方は、細かいことは傳はらぬがニユアンスは傳はり易い。
例の一の方は「長く詳細なコミユニケーシヨン」であり、例の二の方は「簡潔にニユアンスを傳へるコミユニケーシヨン」である。この兩方を使ふことで有效なコミユニケーシヨンと成るのではないだらうか。
ところで、この「簡潔にニユアンスを傳へるコミユニケーシヨン」であるが、これは實は日本人が昔から得意として來たことではないだらうか。
例へば、詩歌や劇の世界で云ふと、短歌や俳句、能のやうな世界。佛教の方では禪の世界。
くどゝゝと述べるのでなく、さらりと簡潔に述べて行間で眞意を傳へやうとする。
ここで、まう一つの例をあげてみたい。
例の一の方は細かな情報が傳はつて來る。だが、ニユアンスが傳はつて來ない。つまり、この人が白い石に秋の情緒を感じたといふ事實は傳はつてくるが、その感じ方自體がどのやうなものであつたかは良く判らぬ。その點に關してはずつと簡潔な例の二の方がより深く傳へてゐる。
更に、例の二の内容を人が聲に出して言ふ場合でも、聲の調子や讀み方によつてニユアンスの傳はり方は變はつて來るだらう。極端な話、森繁久弥氏が讀むのと大山のぶ代氏が讀むのとでは大分違ふと思ふ。
書いてある場合でも、ウエブ サイト上に文字情報として在るのと、これが越前和紙に墨で書いてあるのとでは矢張り傳はり方が違ふだらう。
XP で重視してゐる「コミユニケーシヨン」をこのやうな日本の遣り方で補えぬだらうか、と云ふことをふと考へてみた。
(*) 松尾芭蕉『奧の細道』より
と云ふ譯で (謎)、XP のプラクテイスを書いた「和式XP實踐札」といふのを考へてみた。日本方式のコミユニケーシヨンの良い處を何かに活かせぬかといふ試みの一例である。
使ひ方だが、
のやうな感じでどうだらう (謎)。
・XP のプラクテイスの一部 (Roy W. Miller 氏による「エクストリーム・プログラミングの神祕を解く: 『XPの眞髓』に立ち戻る」の「十九のプラクテイス」より)
・上記プラクテイスに對應する「和式XP實踐札」
Copyright © 1997-2008 Sho's Software